立てこもり医師発砲事件に思うこと

結論ですが

先日起こった「立てこもり医師発砲事件」について思うことを書きます。


この記事は「立てこもり医師発砲事件」について書いています。

立てこもり医師発砲事件とは

「立てこもり医師発砲事件」は、2022年1月28日に埼玉県ふじみ野市で起こった立てこもり事件のことです。

66歳男性(容疑者)が、医師の男性と理学療法士の男性を発砲し死亡。医療相談員の男性に催涙スプレーを噴射した。
経過は、容疑者の母親は26日に亡くなり、同医師の男性が母親の死を確認した。
27日に容疑者は、線香をあげて欲しいと同医師らを呼び出した。
容疑者は心臓マッサージなど蘇生処置を要望したが、同医師は丁寧に説明して断った後、散弾銃を取り出して発砲した。

容疑者について

容疑者は、近所付き合いもなく、一人で自宅で母親の介護を行っていたようです。

一人で高齢の母親を介護するのは大変です。
しかも、頼れる人がいないと、介護の大変さ、ツラさなど共有できず、かなりのストレスだったのではないかと思います。

母親という唯一の貴重な存在だったかもしれません。

そんな母親を失った喪失感や悲しみは測り知れないものでしょう。
母親の死が受け入れられないことは理解もできます。

そして一人となってしまい、生きる意味を失い、今後の希望を見いだせなくなったことでしょう。
これからの不安を考えると、死んでしまいたいと思ってしまったのだと察します。

被害者について

発砲によって亡くなった男性は、地域の在宅医療を担っている医師です。

患者さんや地域の住人からも頼られている存在で、医師の間でも評判の医師です。

とても誠実に診療をおこなっており、他の病院で受け入れを断られた容疑者の母親を5年ほど前から訪問診療していました。
容疑者の母親の状態を勘案して「胃ろう」は適応ではない旨を丁寧に説明したり、誠実な医療を行っていました。

今回も母親が亡くなった後も、御家族の要望も断らずに弔問しており、患者さん本人だけでなく、残された家族も含めしっかりと対応しようとする誠実さがうかがい知れます。

「身内の死」という大きな出来事に対面している遺族に対する精神的なフォローは見逃されがちですが、とても大切なことなのです。

死の受容について

ヒトは誰でも早かれ遅かれ死にます。

ヒトの死亡率は100%であり、昔も今もその事実は変わりありません。

ヒトはかならず死ぬので、残された人は「死の受容」ということが必要です。

この「死の受容」がうまくいかないと、精神的な不安定さから生活するのが苦しくなったり、うつ病などの精神疾患につながったり、誰かを攻撃してしまったりするのです。

「死の受容」をしっかりとおこない、大切なヒトの死を乗り越えて、普段通りの生活に戻らなければいけないのです。

殺人について

ヒトがヒトを殺すという「殺人」は理由はどうであれ許されないです。

たとえ、どんな理由があってもヒトはヒトを殺してはいけないです。

殺人が許されないという理由として、有名なものに「トマス・ホッブズ」によるものがあります。
「人々が守るべき法律も国家も存在せず原子次弾さながらに各人が好き勝手生きる無法状態を想定したとき、その世界はいったいどのような世界なのか?」というものです。

結論をいうと、殺人が許されてしまう社会になると、自分の命がいつ狙われるか、そして社会活動がうまく機能しなくなり、生活自体も成り立たない世界になってしまいます。

どんな理由があっても、殺人は許されないのです。

事件について

本当にやるせない事件です。

理不尽極まりないです。

医療が万能と思っており、蘇生処置によって死んだ人を生き返らせることが出来ると思っているのでしょうか。

人はいずれ死んでしまう儚い存在です。

ツラいかもしれませんが、永遠に続くような命はあり得ないのです。
残された人には「死の受容」が必要なのです。

身内の人の「死の受容」がうまく出来なかった人による、医師の殺人事件。

お亡くなりになった医師やその遺族、医師の患者さん、関係者のことを思うと、とても不憫でしかたないです。

このような悲劇が起こらないことを切に願っています。

まとめ

今回は立てこもり医師発砲事件について書きました。

同じ医師として色々と考えさせられる事件です。

同じ志をもつ命が失われてしまったことは、とても残念です。

このような悲惨な事件が起こらないことを切に願っています。

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